小説「フィルター」①

 人間が能力を身に付けるということは、何かを忘却することに等しいらしい。例えば、赤ん坊は世界中の言語の音を聞き分けられるそうだ。だが、母国語しか話されない環境の中に居続けることで、母国語で使用される音以外は忘却されてしまう。これが、1つの言語に人間が特化する流れである。恐らく僕がここまで生きてきた中でも、多くを身に付けると同時に多くを無くしてきたのだろう。

 

 その日、僕は特に悪いことはしていなかったように思う。強いて言うのならば、古文の授業中に頬杖をつきながら雲の流れを観察していたことが祟ったのだろうか。帰り道、気が付いた時にはトラックに轢かれていた。その時の状況や、どんな人が駆けつけてくれたか、そんなことは意識の外にあった。ただ、命への執着と激しい痛みから逃れたいという思いがせめぎ合い、生への諦めが見えかけた時に思考が途切れた。

 病院で目を醒ますと、変わらない世界の中に、何ともへんてこな生物がいくつも加えられていた。丸やトゲなど、形も様々、よく動くものから元の場所にいつでもいるものまで、てんでバラバラ。統一感のなさに当初は飛蚊症のようなものであると高を括っていた。しかし、それが何日、何か月、とうとう怪我が完治するまで見え続けていたのだから生活に支障が出ないわけがない。そこまで重要ではないことから挙げていくと、事故前と比較して周囲の人から「ぼうっとしている。」と指摘されることが多くなったように思う。他人に見えないものが時々気になってしまうのだから、それはしょうがないと思っていたし、僕は周囲の人間に気付かれないようにどうにか誤魔化せていると思っていた。次に、最初は不規則に見えていた変な生物たちの動きが何か意味のあるような、こちらに何かを語りかけているような気がしてきたことである。だがそれは曖昧な直観のようなもので、野良猫にこちらをじっと見られているような感覚に似ていた。無意味な仮定や予測をぐるぐると考えれば考えるほど、僕の中での彼らの存在は大きくなっていった。

 一番大変だったのは、最初の戸惑いの時期ではなく、生活に馴染んできたころだった。彼らが僕の「当たり前」という意識に入り込んできていたことに一番困難を感じた。周囲の人間は何が見えていて、何が見えていないのかの境界が分からなくなり、日常会話でミスを犯すことが多少なりともあった。回数もそこまで多くなかったので、自分の勘違いということで処理をしていたが、会話の頻度が多い仲の良い友達や家族を誤魔化すことには次第に限界を感じていった。

 

 段々と隠せていないという自覚が強まっていた時に、事件は起こった。その日は青空に雲がたくさん出ていたような空模様だった。黒い狸のような動物が厭に懐いてきたのである。僕は根っからの動物好きということもあり、晩御飯の残りを持っていってまでその生き物の興味を引こうとしていた。その様子を母が見て僕に聞いた。

 

「そこに何がいるの?」

 

 僕は、自分の誕生日を言うかのように、そこに猫ほどの大きさの黒い生き物がいることを説明した。その瞬間母の表情は強張り、まるで僕が悪いことをした時のように一生懸命に何が「見えて」いるのかを聞いてきた。これまでの僕の多少の会話のミスから一抹の不安は覚えていたのだろう。この出来事がそれを確信に変えてしまったようだった。

 

 そこから僕が病院へと連れていかれるのには時間がかからなかった。医者の先生は「事故の影響で脳に何らかの障害が起きているのだろう」という抽象的な説明を偉そうにしていたが、きっと何もわかっていないだろうなとなんとなくだが感じた。いくつか脳内物質のようなものを増やすのだか減らすのだかという薬を自宅で試していたが、状況は特に変わらなかった。

 

 

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すてら - かまってちょーだい